世襲制には、ふたつの大きな問題があります。ひとつは、その当主になかなか子供ができない場合。この場合、弟があとを継いだり、養子をとったりするわけです。
もうひとつは、子供が多すぎる場合です。それも、正妻のほかに側室がたくさんいる場合は、話がややこしくなり、いずれにしろ、派閥争いのもととなり、いわゆるお家騒動に発展しやすいものです。
江戸時代は、武士の家はみな世襲制だったので、トラブルは多かったようです。なかでも、最高の武士である将軍家の世継ぎ問題というのは、国を動かす大問題でした。
徳川将軍15人の中には、実子ができなかった人もいれば、たくさんつくった人もいるのですが、11代将軍家斉(いえなり)には55人もの子供がいました。生ませた女性は40人といいます。
いくら将軍の最大の仕事は世継ぎをつくることだったとはいえ、これはがんばりすぎ。つぎの将軍になれるのはひとりしかいないわけだから、幕府にとって、この子供たちをどうするかは大問題だったようです。
将軍を継いだのは次男で、これが12代の家慶(いえよし)となります。
残りは、それなりの大名家に嫁にやったり、あるいは男子の場合は養子にださなければならなくなりました。ところが、はっきりいって、みなそれほどデキのいい子たちではなかったので、大名たちは内心断りたかったらしいのです。しかし、将軍に向かってそうはいえず、ありがたく養子縁組みをせざるをえませんでした。
そんなこんなで、55人のうち、子供のころに死んでしまったり、体が弱く結婚できなかったものをのぞき、37人が、どうにか、おさまるところにおさまりました。
そのおかげで、そこいらじゅうに、将軍家と縁続きという家ができてしまったのです。
(Visited 1,548 times, 1 visits today)