まさかそんなに早く死ぬとは夢にも思っていなかったので、織田信長は自分の死後、織田家をどうするかについては、なにも指示を残しておきませんでした。
信長には11人の息子がいましたが、そのうちの長男と五男が本能寺で父信長とともに死にました。残るは、9人。次男の信雄は25歳、いちばん下は、8歳くらいだったといいます。
織田家の家督をだれが継ぐか、ということは、だれが天下をとるか、ということでもあったのです。しかし、信長の遺児たちには、いずれもその力はなかったようです。織田家の、というよりも織田信長の後継者は、ご存じのように豊臣秀吉となります。
秀吉が権力を握るためには、自分の意のままに動かせる者に織田家を継がせなければなりません。そこで秀吉が選んだのは、信長の長男である信忠の長男、つまり信長の直系の孫にあたる、当時まだ3歳の三法師だったのです。
嫡孫ということで、筋はとおっています。後継者を決める会議では、秀吉の主張がとおりました。なんといっても、秀吉には明智光秀を倒したという強みがありました。
この三法師は、元服すると秀信と名のり、岐阜の城主となりました。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、石田三成方につきました。そして敗戦ののち、高野山に入り、26歳で亡くなりました。
11人いた信長の息子のうち、その家系がずっとつづいたのは、二男の信雄、七男の信高、九男の信貞の3人でした。これを多いとみるか、少ないとみるか、難しいところです。
ちなみに男子フィギュアスケーターで活躍した織田信成くんは七男の信高の家系になるらしいのです。
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