徳川家康が、本能寺での信長の横死(おうし)を知ったのは堺の宿に宿泊しているときでした。事件の実否を確認するのが先決と思った彼は、まず、京都を目ざしました。
途中、河内の飯盛で家康が懇意にしている京都の商人・茶屋四郎次郎に会い、「京都は光秀が支配し、信長方とわかれば皆殺しにされる」との情報を入手しました。
そこで、きゅうきょ予定を変更して、伊賀を越えて伊勢に出ることにしました。というのは、伊賀出身の家臣・服部半蔵の進言があったからです。道案内は半蔵が買ってでました。
ところが、行く手には思いのほか困難が待ち受けていました。
とりわけ、鹿伏兎(かぶと)越えの難所では、付近の土豪や農民たちに襲撃されそうになったりもしました。彼らは家康一行を「落武者」と知って、ねらっていたのです。
これで一巻の終わりと覚悟をきめたとき、家康の頭をよぎったのがお金。茶屋四郎次郎からお金を受けとっていたことを思いだしたのです。そのお金を渡すことで、どうにか、ピンチを切り抜けることができたのです。
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