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吉良上野介の後継ぎはちゃんといたのか

忠臣蔵の敵役、吉良上野介。その後、吉良家はどうなったでしょうか。
吉良上野介こと義央(よしなか)には、綱憲という息子がいましたが、これは主筋にあたる上杉家の養子となりました。
そうなると吉良家には後継ぎがいなくなるので、今度はその上杉綱憲の息子、つまり吉良義央からみれば孫にあたる義周が、吉良家の養子となりました。
むかしは面倒なことが多かったのです。
そんなわけで、吉良義周にしてみれば、上野介はじっさいは祖父ですが、戸籍の上は、父ということになります。
さて、討ち入りの日、当然ながら義周も一緒の家にいました。突然の討ち入りにあわてはしたものの、薙刀をふるい、赤穂浪士たちと戦いました。だが、気を失ってしまい、気付いたときは、すでにすべて終わっていました。
いまの感覚ならば、親を殺された被害者なのですが、当時の武士の理論では、義周は、親の命を守らず自分だけ生き残ったのはけしからん、となってしまい、なんと一度は切復を命じられました。
その後、罪は軽減され、領地召し上げで本人は幽閉となりました。
しかし、幽閉先で冬の寒さに耐えられず、からだをこわし、3年目に21歳で亡くなりました。
こうして、高家筆頭といわれた名家の吉良家は終焉を迎えたのです。

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