クラーク博士は日本を去ってからどうしていたのか

「少年よ、大志を抱け」といえば、いまも札幌に銅像のあるクラーク博士の言葉。
アメリカの教育者で、明治政府に招かれて、明治9年に来日。できたばかりの札幌農学校の教頭となりますが、わずか1年でアメリカに戻ります。
しかし、その短いあいだに、5千円札になった新渡戸稲造や、内村鑑三といった人材を育てました。
そういうわけで、クラーク博士は日本ではあの名ゼリフとともに、「えらい人」として有名なのですが、故国アメリカではかなり評判が悪いそうです。
理想家だったために人々と衝突することが多く、なかなかうまくいかない。日本から帰ると、マサチューセッツ大学の教授になりますが、大学の方針と合わずに辞職。
それから、海上大学なるものを構想します。汽船を校舎として海を航海しながら、自然や民族について実地に研究するというものでした。しかし志願者が少なく、スポンサーとしてあてにしていた実業家も死んでしまいます。
そこで、鉱山に投資したりして金策に走るのですが、もともと教育者、うまくいくわけがなく、他人の金までつかってしまい、みんなからサギ師だ、とののしられてしまいます。
そんな罵言雑言を浴びながら、この世を去ったそうです。

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