敗色濃厚の長久手の戦、秀吉の恩情はどう転んだか

徳川家康が、反秀吉勢力の大結集をはかり、秀吉を打倒すべく引き起こした小牧の戦い。
このとき、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)、紀州の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)の僧兵らが、秀吉に反抗する動きをみせ、家康に荷担しています。
こうして、天正12年3月13日、家康は挙兵して清洲(きよす)におもむき、戦いの火ぶたは切って落とされました。
とはいえ、兵の数からいえば、秀吉軍のほうが圧倒的に有利でした。にもかかわらず、秀吉軍は、家康にたいし戦いをしかけることはできませんでした。
というのは、敵地にはいりこんでいるというマイナス面があったからです。
3倍ちかい軍勢を擁しながら、なす術のない秀吉側は、しだいに焦燥の色が濃くなってきました。
そんなとき、池田恒興(つねおき)が、家康の領土を撹乱するための奇襲作戦を進言しました。すると、甥の秀次は双手をあげて賛成し、自分をその大将にしてくれとまでいいだしたのです。
この作戦に、あまり乗り気ではなかった秀吉も、熱心な甥の要求についに心を許し、判断をみあやまったのです。
予想されたとおり、秀次らの動きは事前に察知されており、秀吉軍ははさみ撃ちにあい、惨敗してしまいました。
これが、あの有名な長久手の戦いです。

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