ペリーとの交渉には何語を使ったのか?

1853年、アメリカのペリー提督が黒船をひきいて日本にやってきました。このときの交渉役として幕府から派遣されたのが、浦賀奉行与力の中島三郎助。彼は通詞(通訳)の堀達之助を連れて、ペリーが乗船するサスケハナ号に向かいました。ところが、堀は通詞とはいっても、蘭学者であり、オランダ語しか話せなかったのです。「私はオランダ語を話すことができる」――彼の英語は、それだけいうのが精一杯でした。
しかし、アメリカ側は、そういう日本の事情をすでに承知していて、ちゃんとオランダ語の通訳を用意していたのです。

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