バラ色のはずだった発明家の人生はなぜ狂ったか

1806年2月16日、フランスの化学者ニコラ・ルブランは、フランス革命をのろいながら65歳で自らの命を絶ちました。このフランス革命さえ起こらなければ、彼の運命はまったくちがったものになっていたでしょう。
18世紀後半、フランスの羊毛業界にとっては、原毛の繊維についた脂肪分を、いかにきれいに洗い落とすかが大きな問題でした。羊毛は、繊維によけいな脂肪分がついていると染色しにくいからです。
そして、1771年、科学アカデミー(指導的科学者を会員に任命し、研究の推進と顕彰にあたる公的機関)は、この洗剤を開発した者に10万フランの賞金をあたえると発表しました。ニコラ・ルブランはこれに応募。
1787年、「食塩と硫酸から芒硝(ぼうしょう)をつくり、これに石灰石・石炭をまぜて銀の融点(摂氏960度)に熱する方法」を出願しました。いわゆるソーダの製造法です。
みごとこれが1791年に認可され、ルブランは10万フランの賞金の到着を待ちました。そして、すでにパリの郊外でソーダの製造もはじめました。
ここまではよくあるサクセスストーリー。彼の前途はバラ色であるかにみえました。
ところが、その間にフランス革命が勃発。革命政府は賞金をだすどころか、ルブランから強制的に製造方法を聞きだしたのです。無残にも工場はこわされ、彼は貧乏のどん底に突き落とされてしまいました。革命さえ起きなければ、ソーダの発明でばく大な財産を築けたはずだったのに……。

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