師匠にケンカ売った和算家の成り上がりパワー

会田安明(あいだやすあき)という江戸後期に活躍した和算家がいました。彼は延享四年(1747年)、山形県で生まれ旧式の数学を学んだ後、江戸で「最上流」とよばれる流儀の学問を開いた人物です。数学の世界で彼が出世した裏には、意外なエピソードがありました。
郷里・山形で数学を学んだ安明は江戸へ出ると、好きな数学で身を立てる決心をし、当時数学の第一人者といわれていた藤田貞資(ふじたさだすけ)に弟子入りをします。しかしその後、師である貞資との、ちょっとしたいきちがいから、家を飛びだしてしまいました。
その後、安明は、ここでの経験をバネに、貞資を追い越そうという思いを胸に抱きつつ、独学で学びつづけたのです。
師の下を飛びだしたくやしさが、逆に安明のパワーとなり、後になって師を追い越す数学家を誕生させたというわけです。
安明は『精要算法』という貞資の名著を批判する『改精算法』という書物を出版しました。日本一といわれる書物を批判することで、自分の名をあげるのが彼の目的だったのです。
そののち、安明の著書にたいして貞資もそれを批判する書物をだし、さらに安明が再批判の書物をだすなど20年もの長いあいだにわたって、その争いはつづけられました。
結果的にはこの著述合戦が、安明の名と実力をグングンあげていき、のちに日本で最上流とよばれた学問を起こすもととなったのです。

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