戦に情は禁物、明軍が敗れたこんな理由

文禄2年(1593)正月5日、明・朝連合軍は、小西行長らが守る平壌を包囲しました。7日にはついに総攻睾に移ります。世にいう文禄(ぶんろく)の役の開戦です。
多勢に無勢の日本軍は、たちまち京城をめざして敗走します。京城に着いた日本軍はこのまま籠城すべきか、撃って出るべきか悩んだ末、北へすすむことにしました。
そして、正月25日、京城の北約20キロの碧蹄(ヘきてい)館の碧蹄駅で明軍と日本軍は激突します。
先の平壌での戦いをみても、日本軍にとって戦局の不利はあきらかでした。日本軍は勝ち目の薄いのを承知で戦いを挑んでいたのです。
ところが、いざ戦闘がはじまってみると、日本軍が圧倒的な優勢。わずか1日足らずで明軍は敗れてしまいます。
じつはこのとき、明の主力となるはずの大砲がどこにも姿をみせなかったのです。明軍を率いる李如松(りじょしょう)が、自らの直轄軍である甲冑に身を固めた軽騎兵に手柄をたてさせようと考え、火砲部隊を残してきたためです。野戦が得意な日本軍は、これに乗じて、勝利をおさめることができたのでした。
李如松の自分の部隊にたいする温情が、仇となってしまったわけです。

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