日本の男子体操は、オリンピックの団体競技で、ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘンと4連覇を達成、昭和51年(1976)のモントリオールでも団体優勝は確実とみられていました。
ところが、エースの笠松茂が急性盲腸炎になり現地で入院。きゅうきょ、補欠の五十嵐久人をくりあげてチームを編成しました。
規定ではソ連(現・ロシア)に0.50のリードを許してしまいました。このままでは、自由演技での逆転ができるかどうか、きわどくなってきました。
さらに痛いことに、自由演技がはじまって、まもなく藤本俊が吊り輪の着地で右ひざを骨折、それが原因でそのあとの競技は欠場しました。
体操の団体は1チーム6人の編成、そのうち上位5人の得点がチーム得点になるから、もはやひとりでもミスをすれば万事休す、という非常事態に追いこまれたのです。
が、ここからの日本は強かった。「背水の陣」のなかで臨んだ各種目でウルトラCを連発、つぎつぎと高得点をだしました。
残された種目は鉄棒だけとなり、日本選手で最後に登場したのが塚原光男。
塚原の得点の結果で金あるいは銀がきまります。フィニッシュにはいった塚原の体が鉄棒を離れて宙に舞いました。2回宙返り2回ひねりおりという新月面宙返り、世界でまだ誰もやったことがない難度の高いワザをみごとにきめて着地。ポイントは9.90。
この瞬間、日本の逆転Vがきまったのです。
精神力にものいわせ、出るか逆転ウルトラC
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