関ヶ原の戦いの後、石田三成の息子たちはどうなったのか

日本史の年号のなかで、いちばんおぼえやすいのは、関ヶ原の戦いです。西暦1600年。語呂合わせの必要もないくらい、簡単におぼえられます。
東西20万人の兵力が激突しました、この天下分け目の戦いで敗れたのは豊臣方。とはいうものの、当主の豊臣秀頼は、ついに戦場にはあらわれず、実質的には石田三成と徳川家康との戦いでした。
戦国時代は、負ければ命はありません。それも本人だけでなく、その子供たちも殺されました。慈悲深くして生かしておくと、後に親の仇を討つからです。平家は、頼朝、義経らを子供のときに殺さないで生かしたために、のちに滅亡してしまいました。
そんなわけで、三成の子供の命もないはずでした。長男の重家は大坂城に人質としてとらわれていましたが、関ヶ原の勝敗を知ると、脱出、京都の寺に逃れました。
妙心寺の寿聖院がそれでした。さっそく髪を剃り、仏門に入り、父の復譽などする気がないことを、態度であらわしました。
そのかいあって、やがて家康から赦免(しゃめん)され、大禅師にまでなり、1686年まで生きたといいます。
三成の娘のほうは、消息は不明。京都に三成の娘と名のる、舞をしている女がいたとか、和歌山城下の町医者の妻だったとか、いろいろな俗説があるくらいです。
どちらにしろ、三成の子供たちは、徳川幕府を脅かす存在にはなりませんでした。

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