敵の意表をついて危機挽回した知恵者って?

信長の死後、後継擁立問題で、豊臣秀吉と柴田勝家は対立していました。
1583年3月、勝家は佐久間盛政を先鋒として近江(現・滋賀県)の柳ヶ瀬に陣を張り、一方秀吉も伊勢から近江へはいり、木之本に布陣、にらみあいの態勢となりました。
しかし、当分戦局に動きなしとよんだ秀吉は、岐阜大垣城へ出むきました。これは勝家側が、信長の後継として推していた織田信孝の動きを封じるための「大垣出張」であったのです。
近江での膠着状態にいらだった佐久間盛政は、4月、主の留守をねらう形で秀吉側の守備部隊に攻めこんだのです。
それを聞いた秀吉、思いもかけぬすばやさで近江へと舞いもどりました。1万5000の大軍が、大垣と木之本のあいだ52キロの距離を5時間で駆けもどったというのです。しかも、その足ですぐさま反撃を開始した機動力に、盛政はただただ舌を巻くばかりでした。
激戦の未、秀吉軍は大勝し、勝家は自刃に追いこまれました。
さらに、この賤ヶ岳の戦いでは、秀吉は事前に、勝家側のおもだった諸将の引き抜き工作の手を打っていたのです。
ハード・ソフト両面からの意表をつく動きで、秀吉は天下統一事業にいちだんとはずみをつけたのでした。

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